笑ウJENAニハ福キタル

些細なことで笑顔になれるシアワセ。
さあ笑いましょう。

まさかの。反対側も突発性難聴になりまして。
今年3月に右耳を突発性難聴と診断されて半年が経ちました。

その時の記事→ 突発性難聴になりまして。

その節はご心配をおかけしました。
おかげさまで若干の聴覚過敏と耳鳴りをわずかに残しつつも、それまでと遜色なく歌えるまでになり、「当たり前」が感謝に値するものであること、ともすればつい忘れてしまいがちになるのも、むしろ回復という幸運のイタズラかもしれません。

それを改めて激しく自戒する機会がこんなにも早く訪れようとは。

先月末、なんと今度は反対の左耳も突発性難聴と診断されてしまいました。

当然、「なんでー(ToT)」という絶望感に打ちひしがれましたが、半月が過ぎ、ここへきてやっと前向きになれました。

10年前に左耳の危機、そして半年前に右耳を患った時も、やはり希望の手がかりを拾い集めようと、同じ症状を克服した人の声をネットで探しまくりました。
そして前向きになれた時の自分の声が、希望の手がかりを貪ろうとする「私」の支えになれるならとブログに記録しました。
今回も前向きになれたからこその記録です。
むしろ前向きになっちゃったら話したくなっちゃいました(≧∀≦)

何しろ突発性難聴は2度目ですし、10年前の内耳炎からしたら3度目の危機ですし、前回前々回と今回の対比ってコトもありますし、思うところイロイロありますし。
なので、今回は前回にも増して長くなります。
せっかくなので、できればお付き合いください。

両耳、それも半年と経たずに、というのはそれなりにレアケースのようではあります。
8/31から入院して5日間のステロイド点滴、その後退院してから内服でのステロイド治療を続けています。
既に経験済みの症状だということ、少なくとも前回の症状は何とかなる程度まで回復しているということ、そして今回は比較的軽度であることから、かなり冷静に楽観的に受け止めて治療に臨み始めたのですが、前回は治療開始から4日目には検査で回復の兆しが見られたものの、今回はなかなか改善が見られず、残念ながら軽いからといって治りやすいというわけでもないことを痛感した次第です。

細かいコトを言うと、前回の右耳は周波数域によっては40dBほど聴こえの数値が落ちているところもあったものの、治療開始から4日後にはそこも20dBほど上向いた。ところが今回の左耳は、全体的に15dB程度の聴力低下と、数字的には前回より相当軽いにもかかわらずなかなかビクとも上昇してくれず。

(えと。dBで言われてもピンとこないと思いますので、それについてはなんとなくでスッ飛ばしてくださいw)

改善の兆しが全く見られないという絶望感は、正直なところ相当にキツいもんです。
10年前の左耳内耳炎、半年前の右耳突発性難聴、そのいずれも克服したゆえ、なおさらの焦り。

それが!
おととい受けた聴力検査では5dBほど上がったのです!
5dB。健聴時にはむしろ全く区別つかない程度の違いです。正直なところ、私自身、あまり自覚できてません(^_^;)
でも現金なもので、検査結果のグラフで示されたこのわずか5dBの結果で、ほんとにびっくりするぐらい前向きになれましたの。

そこなんです。境目。

治るんだろうか、治らないとしたらいつかこの状態に慣れることができるんだろうか、それはいつなんだろうか、そんなモヤモヤとザワザワとした日々。
ぶっちゃけ、まだその渦中ではあります。
自覚症状としては完全にまだ困ったちゃんです。
でも、たかだか5dB、それが劇的に私を「よし!」と思わせてくれました。

ココで「突発性難聴」についての豆知識。
「難聴」というと「聴こえなくなる」が一番にイメージされますが、むしろそれに伴う症状がツライのです。ココだいじd( ̄  ̄)
もちろん突然一切何も聴こえなくなるという人もいます。
でも患った人の声を様々見るに、「聴覚過敏」「耳鳴り」「聴覚異常」という症状との闘いこそが、突発性難聴のツラさを大きく占めます。
なので、症状改善の自覚を伴わないこのわずか5dBという「たかが数字」にここまでウキウキしている自分に、むしろ驚いています。

10年前に内耳炎を患った時も突発性難聴と症状は似ていたワケですが、「あー。難聴って聴こえないコトより『聴こえちゃう』やつが面倒なんだー」と痛感しました。何より厄介だったのが「音が二重に聴こえる」等の「ヘンな聴こえ方」。

今回の左耳は、10年前の内耳炎、そして前回の右耳突発性難聴の時よりも、この「二重に聴こえる」が酷く、それがとにかくシンドイ症状です。
その部分では、数値はやっと上向いたとはいえ、自覚症状としての改善は体感できていないので、基本的には音ストレスを避けるべく、ほぼ常に耳栓をしています。音楽もテレビも鳴らさなきゃいいわけですが、生活の中で、例えば洗濯機が終了を知らせるアラームも二重。町が5時を知らせるチャイムも全部二重。
音色などにもよりますが、右耳と左耳では半音近く違って聴こえてる場合もあります。
10年前の内耳炎の時は、例えばピアノはホンキートンク、前回の右耳ではそれにディストーションがかかった感じって説明してましたが、今回のはまた微妙に違う(音楽関係の人にはフランジャーがかかったみたいな音って説明してます)。ピッチも違うし濁って聴こえるし。
私自身の体験だけでも違うのですから、発症した人それぞれにツラさも様々なんだと思います。

外からの音は耳栓で小さくできるけど、自分の声は耳栓では消えないので(むしろデカく聴こえちゃうワケでw)、自分の声がジージー割れるのが気持ち悪い(^_^;)
扇風機の前で喋ってるみたいな感じ。
ま、喋らなきゃいいんですよd( ̄  ̄)
でもね、アタマん中で鼻歌歌っちゃったりすると(←のんきなハナシだw)、もはや割れた声しかイメージできなくなってるというザンネンな現象が起きてまして(^_^;)、脳内鼻歌も禁止ですd( ̄  ̄)

聴覚過敏もまた厄介です。
前回の記事でも「聴覚補充現象」について書きましたが、簡単に言うと「聴こえにくいなぁ」と思ってアタマが勝手にボリュームつまみを回して、そうすると余計なところまでおっきくなっちゃうからむしろ響きすぎてキツいやつ。
今回の左耳はそもそもの聴力低下がそんなに酷くないのに、やっぱりアタマは勝手につまみを回しちゃうんです。ならせめてちょっとにしてくれればいいのにそうはいかない(^_^;)
ただ今回はあらゆる音が濁って聴こえるのがツラいためにほぼ常に耳栓しているおかげで、聴覚過敏のツラさは比較的避けられています。
昨年突発性難聴を発症したKinKi Kidsの堂本剛が今年の6月に話してた記事に、当初は『ドラム缶の中でガンガン鳴らされているみたいな感じ』だった状況から、『ドラム缶から首は出ている』状態にまでは改善したと表現しているものを見つけました。
聴覚過敏、そゆことです。
単純に比べればワタシのはずっとマシですが、単純に比べるハナシでもないのが難しい限りです(^_^;)

そして耳鳴り。
主治医曰く、耳鳴りもまたアタマが勝手に頑張ってしまう結果だそうです。あくまで「例えるなら」のハナシだそうですが、聴こえる力が弱まると、「聴かなきゃ」ってシゴトが減っちゃったアタマが勝手に「聴くもの」を作ろうとするような現象だと。へえー。
それでいて、生活音にせよ音をたくさん浴びた後だと耳鳴りは強くなってしまうもんだからコレまた厄介です(^_^;)

ただね、こうやって書いていくとまだまだシンドいコトだらけになっちゃってヤセガマンして笑ってるみたいに見えちゃいそうですが、何度でも言いますけど、5dBの改善は劇的にワタシを前向きにしたのですよ。

これまでは「ヘンな聴こえ方」を「あえて」探してしまっていました。
あーやっぱりダメだ、とわざわざ確認して落ち込む的な。
今も「ヘンな聴こえ方」は探すまでもなく圧倒的な存在感をもってそこにいます。耳鳴りしかり。
でも昨日あたりから「あーいるねー」ぐらいに思えてきてます。相変わらず相当な存在感ではありますが(^_^;)
改善そのものの行方は「神のみぞ知る」です。
でも、「異常」そのもののストレスよりも、「あえて異常を注視する」ということをしなくなると、相当にストレスが減っている気がします。

「大丈夫」。
この「根拠のない『大丈夫』」はものすごく大事だと思っています。

突発性難聴は早期治療がカギと言われています。
今回も異変を感じてすぐに、まずは10年前に親身に内耳炎を治療してくれた医師を訪ねました。
そしてやはりステロイド治療が必要との診断から近隣での治療を勧められ、その先生からの紹介状を手に、半年前に右耳の治療で通った大学病院を受診。その日は残念ながら前回の医師が不在で別の医師が診察。
改めて突発性難聴との診断を下しながら、その医師は「一応ステロイド治療が有効とは言われてますけど」と言いつつも「でもステロイド治療が絶対というわけではない」と。
ステロイド治療したところで、3分の1が完治、3分の1は改善はあっても完治せず、3分の1は改善なし、そういう現状であることは10年前に内耳炎を患った時から承知しています。
ならばこうしてみようという提案もなく、比較的程度も軽いし、と、まるで「やり過ごせ」とでも言わんばかりの対応に悔し涙が滲みました。
この医師は私のこの症状を治そうとはしてくれない、正直そう感じました。
お医者さんのほうが臨床例をたくさんご存知なのかもしれません。でも、私は自分自身がステロイド治療ののちに症状を克服した経験を2回しています。それが「たまたま」かもしれないことも承知しています。
まずはステロイド治療という方法が有効とされているならば、効こうが効くまいがまずは積極的に試して欲しいわけです。
そうして半ばこちらから懇願するような形でステロイド治療のための入院となったわけですが、正直「わー。入院中あの医者とずっと顔合わせるのか。」とワサワサした気持ちになりまして。
と思ったら、入院して病室でしばし過ごしていたら、前回の医師が登場。「すいません。今日は手術だったので。」と。結局今回も主治医として担当してくださることになり、どれだけホッとしたか。
全国のお医者様へ。患者が求めているのは医学的な知識よりも「こちらを向いてくれている感」、むしろ「ちちんぷいぷい」なんですよ。
根拠のない「大丈夫」でも不安さえ減れば、カラダは自然に現状と向き合おうとできるような気がします。
聴覚補充現象みたいな余計なコトもしちゃうし、必ずしも自己治癒力だけで全てを治せるワケではないけれど、カラダが「なんとかしよう」とするチカラって侮れないと思うのです。むしろそれをとりあえずは信じてあげないと。

禁止してもついうっかり脳内鼻歌を歌ってしまうほどにヘラヘラが戻ってきたので、ようやく焦らずに腰を据えて回復を待つ覚悟ができました。
主治医は「例えばこれを機に現代音楽みたいな無調音楽に挑戦するとか」などと私を慰めるためのムダな(ほんとにムダなw)気休めを言ってくれましたが、「またそーゆー無責任なコトを」とツッコむだけの余裕もできました(笑)

もうしばらく音楽は「おあずけ」です。
でも相当に前向きな「おあずけ」です。

音楽に携わる者の耳に起きた不調となると、今後のおシゴトのオファーに差し障るとの不安から隠す人もいるのが現状でもあります。
でも出来ないコトはやれません。それに元々そんなにオファーもありません(笑)だから大丈夫w
歌えるようになったら、ちゃんと「歌えるようになったよー」と言いますので、その時はよろしくお願いしますm(_ _)m

長々と失礼しました。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。

来週から徐々に音楽以外の日常にヘラヘラと戻ります!
| おもう | 20:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
おべんとう展、行ってきました
少々ブログはご無沙汰してましてm(_ _)m

せっかくなので、上野でアートな1日を過ごしたの昨日のおハナシでも。

6月に買って使用期限9月いっぱいのUENO WELCOME PASSPORTってのをしっかり使うための1日。
下町風俗資料館も結構楽しんだんだけど、今回の主たるお目当ては東京都美術館の「おべんとう展」。



おべんと作るのは大好き。最近は無精してたまにしか作らないけど。
作ったおべんと写真はFacebookに掲載すると一部の方々には大変ご好評いただいていて、それなりに調子に乗っているゆえに、おべんとう展、これは行かなきゃでしょう。ということで。

だーいぶ前にブログにもワタシのおべんとをまとめたコトがありました→コチラ

今回のおべんとう展、感想をひとことで言うなら、期待していたものとはちょっと違った(^_^;)
ま、膨らませていた期待自体が勝手なものなワケですが。

ワタシの中でのお弁当は、幼稚園の時のフタを開けるワクワク。それにつきます。今ワタシが作るお弁当も、自分で食べるワケだけど、「フタを開けるワクワク」が一貫したテーマ。
そしてやはりそのワクワクを「食べる」ものなワケです。

展示されていたものは、実際に食べられるものがあるわけではないし、ま、基本的にアート展ですから、そこを期待するのも難しいんでしょうが、ならばせめて「食べたい」のワクワクがあったなら、と思ってしまいます。その部分の印象が薄かったような。

もちろん楽しかったものもありますよ。
ムスメのイラスト入り指示書とそれを元にお父ちゃんが作ったお弁当の写真がバーッと並んでるの、これは微笑ましかったし、ムスメもパパも楽しんでるのが伝わってきたし。
NHKのサラメシのカメラマンが撮った、様々な職種の人たちが昼休みにお弁当を食べている写真の数々。これはうまい言いまわしが見つからないけど、ちょっとグッとくるものもあって。
あと、江戸時代にお花見とかで使われた宴用のお弁当箱とかもたくさん展示されてて。アウトドア用に持ち運べるような凝った作りのお重に螺鈿や蒔絵の施されたいかにもお大尽のお遊び用といった風情。実際にその頃そういう席で食べられていたであろうものがロウ細工で詰められているのもあって、そういうのはタイムスリップできるから楽しいね。
外国のお弁当箱もいくつも並んでたけど、国名は書かれていたものの「これって現代のものなの?かつて使われてたものなの?どんなもの入れてたの?」とかって説明がなかったのは残念。「とりあえずこれだけ集めてみました」って感じだと「へー」で終わっちゃうのがもったいない気がして。
お弁当という文化が持つ「コミュニケーション」という面にフォーカスしたところから派生した「おすそわけ横丁」という展示があったんだけど、これに至っては完全にお弁当から離れすぎな気がして、ワタシには理解が追いつきませんでした(^_^;)

ほかにもコンセプチュアルな展示があったけど、おもしろかった展示も残念に思った展示も、全体的になんていうか「観念的」かなぁ、という印象。
そうか。そう考えると、そもそもお弁当というもの自体がいろんな意味で「観念的」というか「哲学的」な何かを孕んでいるのかも。
…という少々ムツカシイ結論に思い至ったのでありますd( ̄  ̄) エラソウニ。
ワタシの「フタを開けるワクワク」というのも観念的なものだと思うし、お弁当そのものじゃなくて「お弁当作り」にもそれぞれにドラマがあって。
部活を頑張る息子のために暗いうちからのお弁当作りを卒業まで1日も休まず続けたって友人の話。仕事を終えてウチに帰ったら「お母さんおつかれさま。チンして食べてね。」って小学生の息子がお弁当作ってくれてたって友人も。

たかがお弁当です。おなかを満たすってだけのものでもいいんです。いちいちドラマを求めなくても、ムツカシイ意味が必要なワケでもないんです。
でもやっぱり、せっかくならワクワクしたい。それがワタシの思うお弁当です(*^_^*)
| おもう | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
突発性難聴になりまして。
春到来。
向かいの斜面に佇む大きな桜が、我が家のリビングの窓を華やかな額縁に仕立ててくれるこの季節。

今朝もヘタッピなウグイスの鳴き声に起こされました。
この「聴こえる」ということが、どれほど大切かをウグイスの声に思う今年の春です。

実は。
右耳が「突発性難聴」と診断されまして。

病気自慢、不幸自慢は好みではないのです。
けれど、インターネットで様々な情報が発信される今、その情報に少なからず救われた経験があるからこそ、記録しておくべきと。
だからちょっと(っていうかかなり)長くなります。。。

奇しくもちょうど10年前の春、左耳に「内耳炎」という病を患いました。聴覚を失うかもしれない、歌えなくなるかもしれないという危機に、とてつもなく大きな不安で押し潰されそうになりました。

その時の記録がこちら→聴こえるということ

あの時、無我夢中でネット検索をし、同じ症状を抱える人、それを克服した人の声を拾い集めようと必死になりました。 だから、あの時の私がこの記事に辿り着けるように、今回はなるべく詳細に、そしてなるべく希望を持てる内容でありたいとの思いからこれを綴っています。

幸い、10年前の内耳炎は理解ある耳鼻科医との出会いもあり、本来ならば治療を終える期間を過ぎても辛抱強く根治を目指して付き合ってもらえた結果、聴力も回復、長いこと残っていた耳鳴りも全く気にならないレベルになりました。

内耳炎克服後の思いを綴った記事→聴こえるということ。聴くということ。

あれから10年。
まさか今度は反対の耳を患うとは。
それも突発性難聴。
内耳炎の時、聴力の低下以上に悩まされた不快な聴こえ方は、今回の症状ととてもよく似ています。
でも、内耳炎には「炎症」という明確な敵がいるけれど、突発性難聴には、そういうやっつけるべき明確な敵もなく、原因もストレス等の様々な説はあれど特定できぬ病。
いずれも早期治療がカギだということは変わらず、ステロイドによる治療が(確実とは言えないながらも)有効とされています。

今回、異変に気付いたのは今月初旬。
音が二重に聞こえることから始まり、その2日後から激しい耳鳴りに襲われました。
まず近くの耳鼻科を受診し、突発性難聴等の可能性はない、との診断から、とりあえず耳の血流改善を促す薬を処方されて様子見と。
しかし、1週間飲み続けても改善なく、不安だけが募る一方だったことから、10年前に内耳炎でお世話になった耳鼻科医の元へ。その頃に住んでいた町の小さなクリニックです。その町を離れて7年、今回つい「まずは近所の耳鼻科」と思ってしまったことを、今ちょっと悔やんでいます。
久しぶりにお会いしたにもかかわらず、先生はしっかりと覚えていてくれて、今回もまた丁寧な検査の後に深刻な面持ちで「突発性難聴」という診断を私に告げました。
ステロイドの点滴療法、場合によっては入院も必要ということから、現在の住まいから通える大きな病院に行くことを勧められ、紹介状を用意してくださいました。
そして自宅からほど近い大学病院にその紹介状を持参してこの突発性難聴の治療が始まりました。
紹介状には、私が歌い手であること、それ故により慎重な治療が必要であることも書いてくれていたようで、今回診てくださっている医師も、音楽に携わる耳の故障というシビアな状況に理解を示してくれていると感じられることは、とりあえず何より気持ちの上で支えになっています。
1週間から10日ほど毎日ステロイドの点滴、そして安静が必要ということで入院も勧められましたが、実は昨年の秋にも入院(ウィルス性髄膜炎。今回の突発性難聴とは直接の関連はないそうです)を経験している私としては、数ヶ月の間に2度も入院など、できれば避けたいわけです。その訴えを汲んでもらえた結果、なるべくの安静を条件に通院での治療開始。
幸か不幸か10年前の内耳炎で似たような症状を経験しているため、受け止め方があの時より少し冷静です。今回の症状だって生まれて初めての経験だったらそれなりの青天の霹靂です。
1週間の点滴ののち、1週間の服薬、計2週間のステロイド治療を終えて、今週から徐々に通常の生活に戻しています。
聴力は検査上の数値では少し上がったものの、耳鳴りや聴覚異常はまだまだ。
具体的に言うと、シャーというか、キーンとかピーとかの混じったホワイトノイズ的な耳鳴り。それと聴覚過敏。これは、聴力補充現象と言って、聴力が下がった分、脳が入力レベルを調整すべく全体的に底上げしようと頑張るために、聴力の落ちていない周波数域が余計に響いてしまう現象。それに伴って割れて聴こえたり二重に聴こえたりということも起こってしまうため、ピッチが取りづらいのはもちろん、ピアノなんかはかなりディストーションの掛かったホンキートンクです。
それと、耳のオートフォーカスが効かない、これが結構シンドいところです。
正常な耳なら、騒がしい場所でも聞きたい音を拾ってそこに焦点を合わせられます。それが狂っているので、単純に全てが平板に一気に押し寄せてきます。例えば雨の降る中で傘をさしての会話は、傘に当たる雨音に自分の声も何もかも全て掻き消されます。
10年前の症状と比較できるという意味では、そもそもの聴力低下自体があの時よりは軽いこと、何より10年前の症状は治ったということ、それは今回の症状の回復を目指す上で大きな希望にはなっています。

昨日、患って初めて歌いました。
10年前のあの頃は、半年経ってやっと歌うに至りました。今回は症状を自覚して1ヶ月と経たずに「歌ってみよう」と。
それは、まずはどの程度歌えるのか、あるいはどの程度歌えないのか、それを確認してみたかったということもあります。
結果として「思ったより歌えた」と、「思った以上にキツい」が半々というのが正直なところ。
聴覚過敏を抑えるために、音質をあまり変えずに音量だけを下げるということに特化したイヤープラグ(耳栓)を使ってみました。悪くないと思います。少なくとも聴こえづらいくせにうるさい、という厄介な不快感は抑えられます。その分、ある程度の経験則からの「勘」が結構助けになっていることもわかりました。

10年前に内耳炎を患った時、治療を始めても3ヶ月で戻らなければ聴力というのはそこで固定されてしまう、と言われましたが、3ヶ月どころかそれ以上不快な症状が続いたのちにほぼ完治。現在の主治医にそのことを話すと「それは多分ものすごくラッキーなこと」だと言います。でも実際に私にはそのラッキーが起きました。だから今回も漠然とながら「治る」というイメージを持っています。逆に、今回はそう簡単なことではないかもという覚悟も。
内耳炎と突発性難聴は違うし、万が一このままだとしたら、という思いもあります。だからこその「歌ってみよう」でした。まだ治療半ばではあります。完治を諦めてはいません。でもこの耳で歌う自分も受け止められそうな気がしてのこと。

10年前に友人から言われた「その耳がどれほどJENAを支えてくれてきたかを思ってみて」という言葉は、あの時のやり場のない絶望感を拭ってくれました。今、改めて噛み締めています。
誰のものでもなく私の耳です。一生の付き合いです。
ちょっと変な聴こえ方で私を困らせたりもしますが、今それなりに必死でなんとかしようと頑張ってくれてる結果なんです。かわいいヤツなんです。
このちょっとイビツな頑張りに私が慣れる頃には、耳も私も頑張らなくて済むようになってる気がします。
| おもう | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
クレッシェンドとワタシ
銀座にクレッシェンドという店があります。
1990年のオープン当初から、私が15年もの長きに渡ってお世話になっていた古巣です。
バブルの終盤、フロ▲エーに載っていたお時給に釣られて「遊ぶ金欲しさ」に女子大生のワタシが足を踏み入れた店、それがオープンしたばかりのクレッシェンドでした。今思えば、それが「今」に繋がるいろいろなコトの始まりでした。

長年様々な店で弾き語りを続けてきたオーナーのフランコがクレッシェンドを始めた25年前、世の飲み屋はカラオケに席巻され、弾き語りの肩身が狭くなりつつあった頃と聞いています。そんな中、フランコの弾き語りとママの歌を聴いてもらい、お客様にもギターを伴奏に歌ってもらう、それが当初フランコが思い描いていたスタイルでした。

そこに何もわからず「カウンターレディ募集」のページにあった「クレッシェンド」という音楽用語がついた店名と「音楽家が始めたお店」とのコメントだけでフロ▲エーから選んで面接に行ったワタシの登場です。たまたま音大生であったこと、バンドもやっていたことなどから「お。だったら歌ってもらおう。」「ピアノも弾けるんでしょ?だったらキーボードも用意しちゃおう。」と、単に接客のアルバイトとしてのつもりだった女子大生を「こりゃ使えるかも」と気をよくした店主フランコの野望が膨らんでいったワケです。

何より、この出会いがワタシ自身にとって「歌を歌ってお金を頂戴する」というきっかけになったのです。それまではライブをやっていたとは言ってもコーラスでの参加がほとんどで、集客も友達に片っ端から声をかけるのが精いっぱい。そんな女子大生が、「人前で歌う」ということはなんぞや、というものを学んでいく場を与えてもらったわけです。少々オーバーな表現かもしれませんが。
たぶん、フロ▲エーを見てこの店と出会わなければ、私の音楽との関わり方はまた違う形になっていたかもしれません。ま、少々オーバーな表現かもしれませんが。

たまたまやってきた女子大生が数年を経てそれなりに成長し「使える」ことを実感した店主フランコは更に気をよくして野望を膨らませてゆきますw。クレッシェンドは以降、現在に至るまで、プロミュージシャンとしてそれぞれに活躍しているスタッフばかりを揃えるようになっていき、その演奏を聴いて楽しんでもらう時間の濃さがバリエーションを増していきました。
オープン当初、店内にディスプレイとして数点の楽器を飾っていたことから、それを扱えるお客様がセッションに加わることも。あるいは「ヴァイオリンって触ってみていいですか?」と興味を示すお客様も。それに気をよくした店主フランコ(笑)が、徐々に楽器の種類も増やしてゆき、スタッフもヴォーカリストやピアニストだけでなく、管楽器や弦楽器のミュージシャンも加わるようになってきました。

クレッシェンドのHP(http://www.crescendo1990.com)では「参加型音楽バー」と謳っています。
お客様が生演奏を伴奏に歌うなり、楽器を弾くなり、あるいは未知の楽器に挑戦したり、といった楽しみ方のできる店です。
ワタシが何もわからずにこの店で働き始めたあの頃、狭い店の狭いカウンターの隅に置かれた、フランコが自宅から間に合わせで持ってきたキーボードの前に立ち、訳もわからず次から次へと譜面をあてがわれ、知ってる曲だろうが知らない曲だろうがお客様の伴奏に加わる、ということを繰り返しながら「こういうの結構キライじゃないかも」と当初から楽しんでおりまして。
これは先にお話しした「人前で歌う」ということはなんぞや、を学んでいく過程とそれなりに繋がっているように思います。「音楽」を提供するということとはなんぞや。音楽の「楽しみ方」を提供するということはなんぞや。。。。

それに関連して思い出したことがあります。
ハナシはワタシの幼少期に遡ります。
幼稚園児か低学年の頃、東京都児童会館(残念ながら2012年に閉館)というところに連れて行ってもらうのが大好きでした。
そこの音楽室にはいろいろな楽器があって好きに遊べたのですが、ただ闇雲に鳴らしているだけでは面白くない。たまに職員なのかボランティアなのか、ただ単に子供好きの音楽好きなのか、お兄さんとかお姉さんがいて、「これはこうやるんだよ」と楽器の扱い方を教えてくれたり、居合わせたほかの子供たちと一緒に簡単なアンサンブルを仕切ってくれたり、それがとてもとても楽しかった。
ひとりで行けるほど近所なわけではなかったので数回連れて行ってもらった程度ですが、とにかく音楽室で遊んだ記憶は鮮明に残っています。
クレッシェンドが提供している時間は、あの時のお兄さんとかお姉さんが提供してくれた時間に似ているような。

クレッシェンドを離れてから10年以上経ちますが、ピンチヒッターとしてここのところ数回の出番がありまして。
ワタシ自身の音楽との関わりを振り返るいい機会にもなりました。
今夜がピンチヒッターとして一応ラスト。←今頃言うか(- -)
オトナの遊び場。ご都合よろしければ是非お立ち寄りください。
またの機会もあろうかと思います。その時にはまたこちらでもお知らせします。

クレッシェンド
http://www.crescendo1990.com
| おもう | 15:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
命懸けの歌
昨日、島倉千代子さんの告別式を生中継で見てました。
亡くなる3日前に録音されたという曲が流され、悲しみに暮れた面持ちで静かに聴き入る一同。そして曲が流れ終わった時の水を打ったような静けさ。
その静けさに私は違和感というか、ものすごくざわざわした気分になりまして。
もちろん皆さん複雑な想いに呆然とされたのでしょう。告別式という場の重さもあるでしょう。
でも。
歌い手にとって、ここ一番の舞台で歌いきった時に拍手が起こらないことの不安がどれほどのものか。文字通り命を賭けて歌った歌に誰一人拍手をしてくれなかったら。
その後、出棺の時には、沸き起こった手拍子と拍手で見送られていたのを見て、ちょっとホッとしました。
でもやっぱり。もし私があの場にいてあの歌を聴いたなら、誰かに制されたとしても拍手をしたかったと。
ああいう席で拍手をすることが不謹慎だということより、一世一代の歌に拍手をしないことの方が失礼な気がするのです。

素晴らしい歌声でした。ご冥福をお祈りします。
| おもう | 18:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「生きる」ということ。「死んではいけない」ということ。
先日、小5の男の子が自殺したというニュースを見て、やり場のない憤りを感じ、切なさとじれったさがずっと私につきまとっている。
彼が自殺に至った動機は、いじめでも体罰でもない。彼は、自分が通う小学校の統廃合の中止を求めるメモを遺して命を絶った。
私の憤りは統廃合を決めた自治体に対するものではない。
なぜ「自殺しちゃダメ」ということをもっとちゃんと教えてあげられなかったのか、という私を含めた大人の腑甲斐なさに対してだ。

ここしばらく目立って報道される、子供たちの「いじめを苦に」、あるいは「体罰を苦に」した自殺。大人たちは「いじめはあったのか」「体罰はあったのか」「誰が」「どうして」と、自殺に至った原因究明に躍起になる。
確かにそれも大事。でも、批判を恐れずに言うならば、「原因」にばかりフォーカスされた報道を目にするに付け、いじめがあったなら、体罰があったなら、自殺も止むなしと言っているような気がして、胸の奥がざわつくのだ。
原因究明に躍起になる大人たちは、まだ「自殺」という行為が「最終的な」手段だと思ってはいまいか。思い余って止むに止まれず至った行為だと。だからこそそこに至った原因こそが一大事だと。果たして自殺した彼らにとって本当にそうだったろうかと、私の頭の上を大きな疑問符が覆っている。
もちろん、苦しかったろう。辛かったろう。死んでしまいたいほどに。
ついでだからさらっと話すけど、私も同じような経験をしてるよ。でも、私が今生きているのは、ガマン強かったからじゃない。私が子供の頃はまだ「生きる」ということが一番大事なことだと何となく教わっていた気がする。だからその一番大事なことを放棄することは、いじめに立ち向かうより怖いことだと、子供の頃の私は何となくにせよ感じていたのだと思う。
いじめに遭っていたという経験を今ここで大きく引き合いに出したいわけではない。ただ、「いじめを苦に自殺」というニュースが立て続けに報道されることが「そうか。自殺って手があるか。」と安易に思い至る子供たちを増やしているわけではないとただただ信じたいのだが。

自殺の原因が、彼らにとって「耐え難い今」であることは間違いないのだろうが、その「耐え難い今」の何たるかを掘り下げることで全てが解決するとは私には思えない。仮に世の中からいじめや体罰が無くなったとしても、あるいは統廃合が中止になったとしても「耐え難い今」は別の形でやってくるかもしれない。

ついでだからもう一つさらっと言うが、私の父は長患いの末に自殺した。
生きていても辛いだけで楽しくなかったのだろう。闘病中も、このまま死んで行くのだろうか…と嘆きながらも、「死にたくないから生きる」というひと頑張りができない父を看るのは、ゆっくり死んで行く過程を見ているようで、それが切なく、じれったかった。それでも死ぬまでは生きているのだ、死ぬまではしっかりと「生きる」を全うして欲しい、私や母のその思いは「耐え難い今」の渦中にある父にはもはや伝わらない。しかもその「耐え難い今」はあまりにも長すぎた。父が自ら命を絶ったとの連絡が入った時、愕然としたのと同時に、私は「父にしては上出来」そう思った。不謹慎かもしれない。でも、生きているのも辛い、かと言って死ぬのは怖い、と泣き言を並べ続け、最後には泣き言を並べることすら億劫になっていた父が、自ら決断し自ら実行した。私は今でも「父にしては上出来」、そう思っている。

「自殺しちゃダメ」という話を冒頭でしておいて、自殺した父を「上出来」と褒めるのは矛盾しているように聞こえるかもしれない。でもそこに矛盾があるからこそ私はあえてこの話を持ち出した。
「なぜそれを防ぐことができなかったのか」、それを一番悔やむのは自死遺族である。私自身も当然そこを悔やむ思いはある。しかし父の苦しみを和らげる努力は思いつく限りやった。…と思う。それでも足りなかったのだ。まだ生きていたい、父にそう思わせるだけの「明日」を作ってやれなかった。
私は「父にしては上出来」と思えたことで多少救われている。失った命は帰らない。ならばその思いは、失わずに済む命を救うために使わなければいけない。

父の自殺についてはここで初めて語った。こういう話を持ち出すことを快く思わない人も少なからずいると思う。このテーマで書こうと思った時、最初は父のことに触れるつもりはなかった。でも書き進めるうちに、自殺についてあれこれ言いながら、ここに触れないことはズルい気がしてきた。そして、私が子供たちの自殺のニュースにやり場のないじれったさを感じる大きな理由でもあることに、まさにこれを書きながら思い至った。

年齢を重ねるほどに、大切な人を亡くすという悲しみも少なからず重ねていく。その悲しみは命の尊さを身をもって知る経験となる。その経験のない子供たちに、生きるということがどれほど大事か、それを教えるのは大人の役目だ。
「生きる」ということが大事であるのは理屈ではない。だからこそ教えるのは難しい。それでも、失っていい命などない。どれほど「耐え難い今」がそこにあろうが、生きていればまた笑うことができる。理屈ではない。それならば「生きる」ということをしっかりと体現することこそ、大人がまず示すことのできる方法ではないか。大人が世の中を憂えてばかりいては子供は笑えない。
死を選ばざるをえなかった子供たちに「死んではダメだ」そう教えられなかったことを、私たち大人は恥じなければいけないと思う。
私は明日生きるために今笑う。明日笑うために今生きる。もう一度そこから始めたい。
| おもう | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
もう一度会いたい人
ハッピーエンディングノートなる番組を見た。
死ぬ前にやっておきたいことを項目に沿ってリストアップしていく。その項目の中に「もう一度会いたい人」というのがあった。
さて私は誰に会いたいだろう。そう思いめぐらした時、真っ先に浮かんだ人がいた。

小学校2年の時の担任の先生。

大好きな先生だった。大好きという言葉では説明できないほどの深い思い出がある。
思い出の中身はともかく、記憶の隅をしっかりと占めておきながら、こうしてわざわざ「もう一度会いたい人」と思いめぐらさなければその名前を引っ張り出せなかったことを少々恥じるほどに大事な人だ。

会いたい。そう思ったら調べずにはいられなくなった。

そして、ダメもとで名前からネット検索をしてみた。

…見つかった。
思いのほか簡単にたどり着けたことに驚きつつ、でも検索でヒットした様々な情報を照らし合わせてみても、この人で間違いないと。

今ちょっと興奮中。
連絡がとれるかもしれない。そして会えるかもしれない。
先生は私のことを覚えていらっしゃるだろうか。
会ったらどんな話をすればいいんだろう。

アタマの中でいろんな思いが全速力でグルグル回る。
ここまでたどり着いたのだから、これは会うしかない。

なるべく早く実現させたいコトがひとつ増えた。
| おもう | 01:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
被災地 岩手への旅
週末を利用して、岩手の山田町に住む高校時代の先輩に会いに行って来ました。

彼は親戚が住職を務めるお寺の後継者として岩手に移り住み、そして昨年の震災で津波の直撃を受けました。

高校当時から仲のよかった仲間たちで「よし。みんなで会いに行こう。」との話がまとまり、今回、車1台に7人乗り込んで訪ねた次第です。

往路の約11時間、久しぶりに集えたメンバーもいたため、思い出話などに花が咲き、狭い車内に流れる窮屈な時間も賑やかに和やかに過ぎていたわけですが、途中、釜石の市街地を抜けたあたりから沈黙が増えたのは、長旅の疲れのせいではなく、眼前に広がる圧倒的な光景のせい。

基礎だけを残して津波に流された建物の跡が延々と続きます。報道では何度も目にした光景です。テレビやパソコンで見ての感想など、実際に目の当たりにしたら何も出てきません。3年前のカーナビが告げる「500m先、ローソンを左です」のローソンがない。そんな道の先に目的地はありました。

東京から約600km。東北道をひた走り、遠野の山を越え、釜石から北に上ってたどり着いた山田町で、彼と2人の子供たちは笑顔で私たちを迎えてくれました。

あらためて、何より無事でよかった、と思った瞬間でした。

彼のお寺で待ち合わせ、まずは今年になってプレハブで建てられた仮設本堂の中を見せてくれました。

 

この香炉と読経のための鐘は瓦礫の中から奇跡的に見つけられたものだそうです。


地震当日の様子など、あらためて「その場」で聞かされることの意味の大きさはハンパではありません。

でも、高校時代からふざけたキャラで周囲からの注目を集める存在であったこの男は、想像を超える状況に言葉を失っている仲間たちの眉間に寄ったシワを、相変わらずのふざけた話しぶりで緩めてくれることも忘れていません。それはホッとすることでもありました。

既に日も落ちていたので、「明日また寄って見てって」とお寺を後にして、一行はホテルにチェックイン。そして旅の目的のメインである「飲み会」へと突入したのでありました。

彼が予約しておいてくれた居酒屋は、津波にほとんどの建物をさらわれた場所にプレハブで建てられていました。

まあ、呑み始めたら単なる同窓会です。「妻子も同席するので、思い出話は良識ある程度にお願いします」とワケのわからんことをあらかじめメールでわざわざ言ってくるような様々な武勇伝(?)をお持ちの和尚でございます。途中でご家族が帰られるまではそれなりに良識に基づいてお話ししてたと思いますが、和尚、いかがでしたでしょうか。

和尚と共に居酒屋を出て、ホテルの部屋で呑み直し。三十年近い付き合いです。そりゃあそれなりに年齢を重ねておりますゆえ、老眼がどうしたとか腰痛がどうしたとかって自慢をしつつも、基本的に高校の頃からちっとも成長していないことを再確認する時間。愉快な仲間たちの夜は愉快に更けてゆきました。

翌朝7時にはお寺の行事で出かけなければいけないという和尚が帰ったのは午前1時過ぎ。ホテルの外まで送りに行くと満天の星空が愉快な仲間たちの再会を祝して輝いていました。

翌日、私たちはお寺までもう一度行ってみました。



入り口です。「海蔵寺」と書かれた門の石塔も瓦礫から探し出して再度そこに建てたものです。

奥に建っているのが仮設本堂。



仮設本堂の前に震災の慰霊塔が立てられています。そしてこのお寺のすぐ脇が瓦礫の集積場。

津波が押し寄せてきた時、少し高台にあるお墓のところに登って助かったとか。

そこからの今の光景です。


今は遠くに見える海が、あの時、あらゆるものをなぎ倒しながら高台のすぐ下まで押し寄せてきたそうです。

地震で散乱した塔婆を集めて焚き木にしてとりあえずの暖をとったという話がむずがゆく耳に残っています。



水が引いた後は瓦礫に埋め尽くされていたという境内も、かろうじて耐えた鐘つき堂の土台を残して今はがらんと広がっています。でも片付けられた瓦礫はその向こうに広がる集積場に積み上げられているだけ。

彼ら家族が現在暮らしている仮設住宅にも立ち寄らせてもらいましたが、何棟も建てられているその高台もまた集積場が眼下に広がる場所でした。あれを毎日眺めて暮らしているのか、ということに心を痛めることが正しいのかどうか。いや、そんなことを考えること自体が間違っているんじゃないか。その場では答えの出しようがない思いがぐるぐる回ります。

帰り道、海蔵寺の前に広がる船越湾を一望できる場所がありました。



穏やかでとてもきれいな海でした。それを眺めながら愉快な仲間たちの一人が呟いた「この海が悪いわけじゃないんだけど」という言葉に誰も何も返事なんかできるわけがない。

本当に複雑な思いが帰ってもぐるぐる回り、このぐるぐるを自分の中で一旦まとめなければ、それも記憶が熱いうちに、という思いから今日のブログを書いています。でも何をどうまとめればいいのか困りながら書いていたらものすごく長くなってしまったし、すでに何時間もパソコンの前に座っています。ここまできてもまだよくわかりません。

夏に何人かが集まって呑んだ時に酒の勢いで決まった企画でしたが、行ってよかった。うん。それは本当にそう思います。

被災地を訪ねておいて「よかった」って表現は不謹慎ではなかろうか、そんなことを考えるとまたぐるぐる回ってしまいますが、被災地はちゃんと自分の目で見なければ、ってずっと思っていたし、それが「みんなで仲間を訪ねる」という形で実現できたことはむしろ勢いがなければムリだったと思います。

十代の後半にしょっちゅうツルんで「健全な」青春時代を共に過ごした仲間たちです。よい仲間に恵まれたことをあらためてありがたく思えたのもこの旅のおかげでした。本当に楽しかった。不謹慎と思われようが、そこはそう言いたいの。


ただ、往復で計23時間の車移動はそれなりにきつい(^_^;)
| おもう | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
142年越しのオタマジャクシ
「君が代」というと日本の国歌なわけですが、何かと物議をかもすネタでもあります。
物議のほどはさて置いて、今回は「もうひとつの君が代」のお話。

おなじみのメロディーができる前に、もうひとつ君が代が作られていたという話をご存知ですか?

私もつい10日ほど前に初めてそれを知りました。
以前お世話になっていた事務所の社長が先月「レコード・マンの世紀」という本を出版、黒船来航に遡って日本の歌謡史を綴ったその本の中で「もうひとつの君が代」が紹介されています。
その本の出版記念パーティーで、その「君が代」を歌うという任務を、ワタクシ、仰せつかったのです。

そして昨日、そのパーティーが催され、無事(?)任務を遂行してまいりました。

ここであんまり詳しく書いちゃうと社長に怒られちゃうかもなので(笑)ざっくりお話しすると、日本初の軍楽隊に指導をしたフェントンというイギリス人が、「日本には国歌がない、ならば私が作りましょう」と作曲したものが最初の「君が代」だったということ。明治3年に明治天皇の前で初めて演奏されたその「君が代」、スコアも現存しています。

私が仰せつかったのは、誰もそのメロディーを知る人がいない場で、音を通して歴史の一部を再現するような、まさに大役。142年前に並べられたオタマジャクシからその曲の背景を想像するという作業が、これほど難しいものとは。

大げさかもしれませんが、今回のことを通じて、ひとつの音楽を人様の耳に届く形にするということの責任をあらためて痛感したような気もします。
とてもとても貴重な経験でした。

ご興味のある方、「フェントンの君が代」で検索してみてください。
間違えました。「レコード・マンの世紀」、読んでみてください。

| おもう | 16:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
2012年の抱負。むふふ。
新年、あけましておめでとうございます。


昨年は本当に大変な年でした。

その2011年を経て迎えた2012年。

なるべく笑顔で過ごせる年であって欲しいと願うのです。

「なるべく」で十分だと思います。

何か素敵な出来事が起こることを願うのとはちょっと違うのだ。

このブログのタイトル然り、ずっと「わらう」をテーマにしてきました。
でも、まだまだだと痛感しています。

あまりにもショッキングな出来事が起きた去年、ニュースを目の当たりにするにつけ、悲しかったりもどかしかったり、ココロが揺さぶられまくりました。
もっと小さな身の回りのくだらない出来事でも、ココロ穏やかならざる場面はたくさんあります。
かといって何が起きようがココロ乱さず、仏のようにただ穏やかに全てを受け入れるなんてぇことは不可能。
でも、思い通りにいかないことのもどかしさは、地団駄を踏みまくることでは解決しないんだなぁこれが。

地団駄を踏んでいる間に、自分自身が笑顔になれる瞬間、誰かが笑顔になってくれる瞬間を残念ながら逃しているのがもったいないと。

私は、なるべく自分の口角が上がっているふとした瞬間にもっと気づきたいと思うのです。そのためには、もうちょっとココロのユトリが必要。で、そのユトリのためには、ちょっと踏ん張ったりすることも時には必要かもと思うのです。
そしてそして、私のそのちょっと上がった口角が、誰かひとり(それはアナタかも)の口角を上げる手助けになれたなら、とムシのいいことを思うのです。

もっといけると思ってます。むふふ、です。
そのために、ちょっと踏ん張り時だと思っています。

本年もそんなJENAさんを、よろしくお願いいたします。




| おもう | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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生業:うたうたい

「ニホンゴ話せますか?」とよく訊かれるが、生粋の江戸っ子、神田の生まれ。
英語で歌い、ポルトガル語で歌い、スペイン語で歌い、時にタガログ語でナンパされる。そんな無国籍な風貌でありながら、明神下で日本舞踊を教える父を持つ。
一番好きな酒はテキーラだが、一番好きな食べ物はあん肝(一緒にヤッてみたことはまだない)。
「無節操」をポリシーに、明るく楽しいビンボー生活をエンジョイしながら、日々、歌っている。

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